龍海院 前橋藩主酒井氏歴代の墓(前橋市)

龍海院(前橋市)

龍海院は大珠山是字寺龍海院という曹洞宗の寺で、享禄3年(1530年)元旦に、徳川家康の祖父清康が是の字を左手に握る夢を見て、天下統一の瑞夢であるという模外惟俊(もがい いしゅん)和尚の予言を信じ、模外惟俊を招き岡崎城下に伽藍を建立しました(これが岡崎龍海院)。その折、松平清康は、模外惟俊に帰依しようとしましたが、松平家の菩提寺は大樹寺(愛知県)であったため、酒井雅楽頭正親に寺を任せたと云います。

その後龍海院は徳川家の命により外護者となった酒井家の転封とともに天正18年川越に、慶長6年前橋に移り、雅楽頭系酒井家宗家九代 酒井忠恭の時に姫路へ転封となった折も当地に留まりました。龍海院は開運出世の寺として信仰されています。

前橋藩酒井氏歴代の墓地(前橋市指定史跡)

前橋藩主酒井氏歴代の墓地 前橋藩主酒井氏歴代の墓は、広さ3,800㎡の敷地に、奥に初代~8代まで、手前に姫路に転封した9代から15代までの墓石が並んでいます。

酒井重忠夫婦の墓

前橋藩初代藩主 酒井重忠夫婦の墓

酒井重忠は、酒井正親の二男で、徳川家康に仕えて三河国(愛知県)西尾城主となり各地に転戦して武功をあげた。天正18年(1590年)家康が関東入部(入国)とともに武蔵国川越に1万石、ついで慶長6年(1601年)厩橋(前橋)に3万3千石で転じ、酒井氏の藩政150年の基を開きました。
酒井忠世の墓

前橋藩二代藩主 酒井忠世の墓

酒井忠世は、酒井重忠の長男で、家康が関東入部の際重忠とは別に加増され、川越城主となった。慶長10年(1605年)には将軍職に就いた秀忠筆頭年寄となり、元和3年(1617年)7月、父重忠が死去すると遺領の厩橋3万3千石を継ぎ厩橋藩二代藩主(雅楽頭系酒井家宗家二代)となった。藩領は、牧野氏の旧領(大胡)も加え12万2千石となりました。
酒井忠行の墓

前橋藩三代藩主 酒井忠行の墓

酒井忠行は、酒井忠世の嫡男で、慶長19年(1614年)10月の大坂冬の陣で初陣。元和9年(1623年)に奏者番となり、寛永2年(1625年)には上野国板鼻に2万石、寛永10年(1633年)には、1万石が加増され3万石を領した。寛永13年(1636年)3月、忠世の死去により家督と厩橋藩の遺領を相続し部屋住領と併せて15万2千石となった。家督を継ぎわずか8か月で没しました(37歳で死去)。
酒井忠清の墓

前橋藩四代藩主 酒井忠清の墓

酒井忠清は、酒井忠行の長男、祖父 忠世、父 忠行が相次いで死去したため、翌年寛永14年(1637年)に遺領12万2千石のうち前橋藩10万石を相続し、弟の忠能に伊勢崎藩が分地された。承応2年(1653年)老中に就任し、寛文6年(1666年)大老職に就任。延宝8年(1680年)、上総久留里2万石を加増され15万石となり、忠行時代の家格に復しました。
酒井忠挙の墓

前橋藩五代藩主 酒井忠挙の墓

酒井忠挙は、酒井忠清の長男で、延宝9年(1681年)2月27日、忠清が幕政を退き隠居したため家督を相続し、15万石のうち2万石を弟の酒井忠寛に分与し、分家伊勢崎藩の創設を幕府に認められた。貞享2年(1684年)には奏者番兼寺社奉行に就任し、元禄11年(1698年)に江戸城大留守居に任じられた。厩橋城の名を前橋城と改めている。
酒井忠相の墓

前橋藩六代藩主 酒井忠相の墓

酒井忠相は、酒井忠挙の長男で、宝永4年(1707年)に、父忠挙の隠居により家督を継いだが、僅か3ヶ月で死去した。
酒井親愛の墓

前橋藩七代藩主 酒井親愛の墓

酒井親愛は、酒井忠相の長男で、宝永5年(1708年)、父忠相の死去により家督を継いだが、若年である藩政を隠居した祖父の忠挙が執政した。
酒井親本の墓

前橋藩八代藩主 酒井親本の墓

酒井親本は、越前敦賀藩の第二代藩主酒井忠菊の長男で、享保元年(1716年)に前橋藩の第七代藩主酒井親愛の養子となり、享保5年(1720年に親愛が隠居し家督を継いだ。
酒井忠恭の墓

前橋藩九代藩主 酒井忠恭の墓

酒井忠恭は、前橋藩分家の越前敦賀藩主酒井忠菊の四男で、兄の親本に子がなく、前橋藩を継いだ。前橋藩の財政、利根川の氾濫などが相次ぐなど財政基盤が脆弱であったことから、内実豊かな姫路に転封した。

観光地・施設情報

所在地群馬県前橋市紅雲町2-8-15
お問合せ先龍海院
電話番号027-221-4977
料金なし
時間日中常時
定休日なし
駐車場あり
トイレ
自販機
売店
その他

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