倉賀野神社(高崎市)

倉賀野神社拝殿

倉賀野神社は倉賀野宿のほぼ中ほどに位置し、旧中山道の南側に鎮座していました。縁起によると、創建は崇神天皇の御代、皇子豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が東国経営にあたり、今の境内に松の木を植えて亀形の石を御霊代(みたましろ)として祀ったことに始まるとされています。倭大国魂神の分霊と伝わる亀形の石は御神体として現在も本殿に奉安されています。

建長5年(1253年)倉賀野氏の始祖倉賀野三郎高俊によって社殿が造営され、それ以後、倉賀野氏の氏神として社殿の建替や修復が行われました。旧社名は飯玉大明神といい、明治10年に大国魂神社と改称の後、明治43年に近隣の数社を合併して倉賀野神社と改称されました。

倉賀野神社本殿(高崎市指定重要文化財)

倉賀野神社本殿

倉賀野神社の本殿は一間社流造で、正面と背面に唐破風(からはふ=屋根に施された装飾で、中央が弓形に、左右両端が反り返り曲線状になった形)が付く銅板葺き屋根となっています。江戸時代後期の社殿建築の特徴ともいえる無彩色の多種多様な彫刻が施されています。現在の社殿は元治2年(1865年)3月に上棟式を行い、慶応2年(1866年)9月に遷宮式が行われました。倉賀野神社本殿は造営文書も保存され付属造営文書類も含めて高崎市の重要文化財に指定されています。

飯玉縁起の彫刻(拝殿向拝)

飯玉縁起の彫刻

「飯玉縁起」あらすじは、光仁天皇(771年~780年)の御代、群馬郡の地頭群馬太夫満行には八人の子がいた。末っ子の八郎満胤(みつたね)は、芸能弓馬の道にすぐれ帝から目代の職をたまわるようになった。ところが兄たちは八郎を夜討にして、鳥啄(とりばみ)池の岩屋に押しこめた。

三年後、八郎は竜王の知徳を受けて大蛇となり、兄たちとその妻子眷族(けんぞく)まで食い殺した。その害は国中の人々まで及ぶようになったので、帝はこれを憂え、年に一人の生贄を許した。

やがて、小幡権守宗国が贄番に当たる年、十六歳の娘海津姫との別れを共々に嘆き悲しんだ。都からやってきた奥州への勅使、宮内判官宗光はこれを知り、海津姫と共に岩屋へ入った。頭を振り尾をたたく大蛇にむかい、一心に観世音菩薩を称名、琴を弾いた。これによって、大蛇は黄色の涙を流して悔い改め、神明となって衆生を利益せんと空に飛んだ。烏川の辺へ移り、「吾が名は飯玉」と託宣し消え失せた。これを見た倉賀野の住人高木左衛門定国に命じて、勅使宗光が建てさせたのが「飯玉大明神」であるという。

というもので、拝殿正面の向拝に、宗光が琴をかなでる彫刻があります。

観光地・施設情報

所在地群馬県高崎市倉賀野町1263
お問合せ先倉賀野神社
電話番号027-346-2158
料金なし(諸祈願料、初穂料等は神社へご確認ください)
時間常時、ただし日中など
定休日
駐車場あり
トイレ
自販機
売店
その他JR高崎線倉賀野駅から徒歩で約13分、高崎駅からは車で約15分
倉賀野神社

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