岩櫃城 真田氏ゆかりの地(東吾妻町)

岩櫃城本丸址

岩櫃城(いわびつじょう)は、標高802メートルの岩櫃山中腹に築かれた山城で、築城時期や築城者は定かではなく、南北朝のころ築城されたと考えられています。岩櫃城の城主として最初に名前がでてくるのが吾妻太郎行盛とされています。

吾妻太郎行盛は、南北朝時代に南朝方の里見氏に攻められ吾妻川原で自刃したという伝説があり、その後、行盛の子 斉藤越前守憲行(千王丸)が北朝方の上野守護上杉憲顕の支援によって岩櫃城を奪回し、子孫が戦国時代まで城を本拠に東吾妻を支配したとされます。

(異説として、永禄7年(1564年)まで加沢記所収の史料以外で岩櫃という地名がないことから、岩櫃城は武田信玄のもとで真田氏が築城したとする説もあります。斉藤越前守憲行が奪回したのは岩下城であったかもしれません。この場合以降の真田幸隆が攻略した城は岩下城となります。)

武田氏・真田氏の東吾妻支配

岩櫃城二の丸跡

戦国時代の永禄6年(1563年)、武田信玄は斉藤越前守憲広(基国)の本城であった岩櫃城を、家臣 真田幸隆に攻略を命じ落城させ、岩櫃城の城代とし真田幸隆を置きました。その後、武田信玄が没した2年後の天正2年(1574年)に真田幸隆もこの世を去り、昌幸の兄信綱が家督を継ぎましたが、翌年、長篠の戦いで信綱、昌輝兄弟が討死したため、三男の昌幸が家督を継ぎました。東吾妻は武田氏、真田氏の支配地と変わり、信幸(のちに信之と改名)と弟信繁(のちに幸村へ)も少年時代を岩櫃城で過ごしたと言われています。天正18年(1580年)、北条氏が滅亡し、一度北条氏の支配下にあった沼田城が再び真田氏の支配下となり、昌幸の長男信幸が初代沼田城主となりました。岩櫃城は上田城と沼田城を結ぶ真田道の中間地点として重要な位置をしめ、吾妻統治の中心地としても役割を果たし、慶長20年(1615年)に徳川家康が発令した「一国一城令」によって破却されるまで真田氏の城として使われました。

麓からみた岩櫃山、城跡は絶壁の右手の中腹に

麓からみた岩櫃山

吾妻川北岸にそびえる岩櫃山は、吾妻八景の一つで「ぐんま百名山」にも選ばれた群馬県を代表する名勝です。南面は約200メートルの切り立った絶壁となり、奇岩や径石からなる山容に圧倒されます。この岩櫃山の中腹にある岩櫃城は、主郭が東西に約140メートル、南北約35メートルの細長い形状をし、城郭の規模は136ヘクタールと上州で最大規模を誇ります。主郭(本丸址)からは吾妻川を見下ろす形で眺望が開けています。

岩櫃城の中城

岩櫃城中城

中城は、本丸址の東側に位置し、攻め込む敵が斜面を横方向に移動するのを規制するために設けられた竪堀によって区画されています。この中城は平沢登山口からは山道(遊歩道)を5分ほど登った場所にあります。

主郭から見た岩櫃城の竪堀

岩櫃城竪堀

岩櫃城は竪堀を駆使した城で、二の丸付近から南北に竪堀が設けられています。中城から主郭へ通じる遊歩道はこの竪堀の一部に設けられているため、主郭へ辿り着くのは一苦労です。

  • 参考資料:東吾妻町関係資料
  • 他文献:日本城郭大系4、関東の名城を歩く北関東編

観光地・施設情報

所在地群馬県吾妻郡東吾妻町
お問合せ先東吾妻町観光協会
電話番号0279-70-2110
料金なし
時間常時
定休日なし
駐車場平沢登山口駐車場(50台)
トイレあり
自販機あり
売店
その他

【アクセス】

  • 電車利用
    JR吾妻線「群馬原町駅」から徒歩で真田道経由約2.3km、または、バスで「大戸口」下車後徒歩
  • 車利用
    国道145号線を渋川・中之条方面から草津方面へ進み「原町」交差点から約500m先の「岩櫃城跡」案内板を目印に左折、左折後道なりに進みT字路を右折し約1.4km進むと岩櫃山登山口看板に従い左折

【ご注意】
岩櫃城本丸跡は、岩櫃山登山口(平沢登山口)から整備された山道を徒歩で約15分~20分。途中登り勾配の厳しい箇所や滑りやすい箇所もあるため履きなれた運動靴等の着用を。

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